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岡山市:ピンポン伝来の地 東山・門田界隈散策 石井のお父さんありがとう

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岡山市:ピンポン伝来の地 東山・門田界隈散策 石井のお父さんありがとう

7年前のこの時、旅行が冬眠中だった私は久々に近所をぶら〜り散策。
旅行と違って緊張感が欠けたのか途中の緩い下り坂ではよそ見をしていて凸凹に躓きヘッドダイビング、とっさに両手でかばったのですが、その両手をもろに負傷
災難はいつ訪れるかわかりません油断大敵です。(^O^;
めげずに一度家に戻り包帯を巻いて出直しです。

マツケンと言えば2012年の大河ドラマ『平清盛』の主役ですが、今回マツケンはマツケンでもマツケンサンバ、松平健主役の2004年に全国上映された「石井のお父さんありがとう」と言う日本初の孤児院を創設し、後に「児童福祉の父」と言われた石井十次(宮崎県児湯郡高鍋町出身)の生涯を描いた作品ですが、そのルーツが地元にありました。
石井十次について少し勉強してみました。


福祉という言葉すらない明治時代に生涯命がけで3000人もの孤児を救ったと言う石井十次はアメリカの南北戦争終戦直後の1865年5月5日に宮崎県、当時の日向国児湯郡上江村馬場原、高鍋藩の下級武士、石井万吉・乃婦子夫妻の長男として生まれています。

16歳で内野品子と結婚し上江小学校で教鞭を執っていましたが、直後の翌年(1882年)医学を学ぶため岡山市に移住。岡山甲種医学校(現岡山大学)に入学。同時期にキリスト教に入信。

学校卒業の翌年1887年(明治20年)巡礼途中に夫に先立たれた母親から一人の男児を引き取る。これをきっかけに孤児教育会(後の岡山孤児院)を岡山市の三友寺で創設。

濃尾地震、日露戦争、東北地方の凶作等々による孤児達を受け入れ岡山孤児院の収容者数は1200人を超えた時もあったようです。

その後は四苦八苦しながら地元経済界の大原孫三郎等の助けも得ながら運営、石井十次亡き後も岡山孤児院や茶臼原孤児院が1926年(大正15年)に活動を中止するまで大原孫三郎が引き続きフォロー

※ちなみに石井十次の長女(友子)は洋画家の児島虎次郎の奥さん。

石井十次生誕100年となる1966年(昭和41年)に石井十次記念館(岡山孤児院の家族舎、一棟のみ)が財団法人石井十字記念聖園に譲渡され、その後、石井十次記念聖園の解散により、昭和56年(1981年)に児童養護施設を運営する社会福祉法人新天地育児院に譲渡される。
この時はその石井十次記念館にも立ち寄ってみました。

 
2013/01/25 
中区の門田屋敷電停付近ですが、このあたりから左右でも特に左側(北側)一帯から正面東山公園に至るあたりまで孤児院の寄宿舎や学校、農園等があった場所となります。
岡山孤児院が創設された三友寺も目と鼻の先にあります。

 
岡山孤児院家庭舎等配置図
寄付を受けた地域、団体、企業などにちなんで札幌館や高知館、ニューヨークヘラルド館、ハリス館と言った名前が付けられていました。
このようにして家庭舎は既存の建物も含め男子部32、女子部20の計52組が出来上がりました。
現存の石井十次記念館は札幌館です。
また東山公園や大福寺、地蔵川などの位置からしてかなり広い敷地だった事がわかります。


○三友寺(岡山孤児院創設)
三友寺の門の左横にあるピンポン伝来の地の石碑(◎◎)

 
○石井十次記念館(札幌館)
同町内、記念館のある新天地を訪ねてみました。
孤児院在りし姿を伝える唯一の遺構です。
※家族主義

 
6帖×3部屋は孤児の部屋で左奥の4.5帖が保育士の部屋でその隣に台所がありました。
 
こちらの部屋は石井のおとうさんありがとうのロケに使用された部屋だそうです。

 
1906年(明治39年)後半当時、1200人に膨れ上がった時の写真です。
※委託主義

 
※密室教育(対座教育)


男子部食堂。ご飯はおかわり自由だった
※満腹主義


 
石井十次の娘友子の婚礼。

前列:大原孫三郎、寿恵子夫妻に挟まれ児島虎次郎・友子
後列:左から石井十次・辰子、炭谷小梅、石井震子

 
石井十次銅像(新天地)
※実行主義※非体罰主義※旅行教育※米洗教育
※小学教育※実業教育※托鉢主義※宗教教育

 
新天地ではこの時(2013年の時点)で地元岡山市や岡山県を中心に42名の孤児達の世話をしていました。

説明を加えてましたら文字数が多すぎて公開になりませんでしたので○○主義の説明文は全部消しました。








拍手[15回]

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コメント

1. 無題

存じ上げておりませんでした。
石井のお父さんありがとう。

ピンポン伝来の地三友寺には昨年健康卓球のみなさんと
初詣に訪れ境内にあがりお坊さんの説法を聞きましたよ。
それから卓球の腕前がグングンあがりましたV(^。^)

ピンポン伝来の地岡山
ちなみに石碑には(写真を拡大すれば見れますが)

旧制第六高等学校の言語学教授として明治32年に来岡した英国人エドワード・カントレトは,ここ三友寺に寄宿していた。彼の義弟にあたる山田耕筰(明治19年~昭和40年)は彼の自叙伝「若き日の狂詩曲」の中で「義兄より,作曲・エスペラント語等と共にピンポンの指導を受けた」と記述している。これは,坪井玄道教授が日本に卓球を伝えたと言われている明治35年よりも3年早いことである。ここに,耕作生誕の120周年を記念してこの碑を建立し,後世に伝えるものである。

平成18年9月9日

岡山県卓球協会

と、書いてあります。

旅人さん冬眠中もあったんですね(^^)

2. 無題

こんばんは。石井のお父さんが上映されていたころは全く関心がなかったのですが、地元のホテルで行われたマツケンさんのデイナーショーがきっかけでそれを思い出しこの時散歩がてらにぶらっと出かけてみました。
いつも旅をしているわけではありませんが、特にピンポンをやり始めたここ1~2年は遠くへ出かけることはなくなりました。今年になってからは新コロナのこともあって冬眠状態です。

3. 無題

2020-06-17 07:42:50
石井十字の娘友子が、児島虎次郎のもとに嫁いだとは知らなかったです。親しみのある場所でのブログに楽しくワクワクで読ませて頂きました。ありがとうございました。

4. 無題

つながりで言いますと大原孫三郎に奥さんの寿恵子夫人を紹介したのは石井十次です。

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